1974年の入社以来49年の長きにわたり、ティアックで開発に携われてきた馬渡秋則さんが定年を迎えご勇退されることになりました。
今回は番外編として馬渡さんの50年に渡るティアック人生を振り返っていただきました。
ティアック:まずはこの度の定年によるご勇退、長きに渡りお疲れさまでした。馬渡さんは入社されてから今まで開発一筋ですか?
馬渡:1974年に入社して、最初はティアックビデオに1年ほどいて、それから基礎開発に移りました。VTRを記録トランスポートとして使用するPCMプロセッサーのハードウェア開発を担当したり、ビデオ開発に異動してビデオディスクレコーダーのシステムコントローラーの開発を担当したりで、ずっと開発の日々でした。1983年にTASCAM開発に移りました。
ティアック:今まで手掛けられた製品で印象に残っているものはなんでしょうか。
馬渡:DA-800-24、いわゆるDASHシリーズですね。オープンリールのデジタル24chのPCMマルチトラックレコーダーです。
当初はオリジナル・フォーマットでMTRの開発を目指していたのですが、SONY社からDASHフォーマットの磁気ヘッドとLSI提供の提案があり、DASHフォーマットのMTR開発に路線変更したんです。
ティアック:当時DA-800-24を作れたことが凄かったですよね。他のメーカーでもなかなか作れる品物じゃなかったですね。DASHで画期的な点はありましたか?
馬渡:機能的にはSONY PCM-3324を踏襲してますけどね。磁気ヘッドとLSIはSONY社の提供でしたがその他はすべてティアックが設計しました。記録回路も再生回路も自社製ですね。メカの部分もオリジナルで起こしたんですね。
PCM-3324はフェライトヘッドでしたが、SONYさんから薄膜ヘッドの提案を受けDA-800-24はこちらを採用しました。ただ、薄膜ヘッドはテープの粉落ちが付着しやすい問題があり、真ん中のトラックは問題ないのですが、テープの端トラックはエラーレートに影響がありました。SONYさんが薄膜ヘッドを採用したPCM-3348でクリーニングヘッドを追加していたので、エラーレート改善の対策として途中から真っ赤なルビーのクリーニングヘッドを追加しました。ゴミがあるとヘッドが偏摩耗するので、ゴミ取りのクリーニングヘッドが、綺麗に垂直にあたるように精密に取り付ける必要があって、苦労しましたが、これでエラーレートが改善しましたね。
ティアック:この技術を見事にDA-88に転用しましたよね。
馬渡:88もエラーレートでずいぶん悩んでいましたからね。アレンジして搭載することで、いい結果になりましたね。
ティアック:DA-800-24の発売時期は1989年から1995年ですね。そしてそれに変わる製品が、今名前に上がった・・・・。
馬渡:DA-88ですね。DA-88は価格も安いし、複数台の同期運転も可能で、コンパクトで持ち運びもしやすいレコーダーでした。
実はDA-88と同じ頃(1990年頃)にRA-4000という4チャンネルのHDD PCMレコーダーの開発も進めていたのですが、当時のチップセットの性能では機能に限界があり、製品化を断念しましたね。
ティアック:ミキサー関係とのかかわりはいかがですか?
馬渡:2000年の1月だったかな?デジタルミキサーのDM-3200ですね。特に海外で評価が高かったモデルですね。
ティアック:デジタルミキサーに使ったICはDDMP(Data Driven Multimedia Processer)という面白いICなんですけど、普通のCPUは計算する部分があって、プログラムカウンターがあって、外にROMとRAMがあって、という構成で、クロック同期で動いてるんですけど、そのDDMPにはクロックという概念がなくて、トリガーはあるんですけど、そのデータに「どこそこでどういう仕事をしなさい」というコマンドをつけてスタートするとデータと命令が一緒になって、こう動いてという方式で、低消費電力が特徴って言われてたんですね。昔から、それこそコンピューターの草創期からその発想があって、データにコマンドをくっつけて仕事させていくデータドリブン型のコンピューターを空想してる人たちがいたんですね 。
時代は1945年前後なんですけど、それが時々思い出されて、データドリブン型のプロセッサーが1980年頃の日経エレクトロニクスで特集していて、そのころはNECと三菱とシャープだったかな、三社が共同で取り組んでいたようですけど、その次の波が来たのが2000年頃なんです。1980年ころに研究されていた方々がまたデバイスを作って、ビデオのアプリケーションとか通信のアプリケーションとかに売り込んでいたんですね。その時にティアックにも売り込みがあって、このDDMPがDM-3200とDM-4800に行きつくわけです。
ティアック:1945年に考えられたアイディアが50年を経て、DM-3200、DM-4800になったわけですね。
馬渡:原理はあったんですが、半導体が発展していない時期だから試作ができないわけですね。半導体が作れるようになったら「そういう方式もあったよね」って思い出されて出てきたわけです。(笑)
ティアック:その他に印象に残っている製品はありますか?ご自身が手掛けていない製品でも結構ですが。
馬渡:直接担当はしていませんが、CD-200シリーズは良かったなと思いますね。当時の業務用CDプレーヤーを見直すということで、せっかく周辺機器部門もあって、自社でドライブも持っているから、新たにオーディオ用にドライブも開発して、信頼性も確保できて、いい製品になるんじゃないかと思いましたが、結果売れ行きも順調で今日に至るまで息が長い製品になりましたね。
ティアック:その前にリニアモーターを使ったCD-701とかありましたよね、放送局に導入された。
馬渡:あのシリーズは大先輩の土方さんが放送関係に顔が広くて、放送局にデモに行ってという活動が功を奏してシェアを取りましたよね。
ティアック:あれがティアックがプロに入るきっかけでしたよね。
馬渡:放送局ではCDプレーヤーはティアックだっていうね。
ティアック:それにしても、最初はビデオ開発に配属されていたんですね。ティアックというと音響のイメージが強いと思いますが、当時は映像にも力を入れていたんですね。
馬渡:映像と言えば、私が入社するかなり以前のことですが、東京オリンピック(1964年)では、ティアックが世界初のスローモーションVTRのトランスポートの試作を担当したそうです。さらにそこから5年ほど前には、当時の放送用4ヘッドVTRが輸入に頼っていたことから、NHK技研主導で放送用4ヘッドVTRの国産化の動きがありました。まず、トランスポート部の試作を大手数社を集めて発注したそうですが、納期に間に合ったのはティアックだけだったとのこと。その後、大手数社にもティアック製トランスポートを融通し、大手各社も試作を終えることが出来たということでした。日本の放送用VTR黎明期に、ティアックは大きな足跡を残していたようです。
ティアック:注文があったから作ったという事ですが、それに応えるだけの技術者がいたってことですね。記録と再生に関しては映像、音声関わらずに行けたということですね。
馬渡:気骨のある人達だったようです。「できねえよ、そんなの」ってことはなくて「面白い」って言う人たちでしたね。
機械のメカニカルな部分は非常に強く、技術が高かったんですね。
ティアック:ティアック人生はいかがでしたか? 業務以外のことも教えていただけますか。
馬渡: 息抜きもしつつ、長いこと仕事を続けることができたなという気持ちです。
入社した頃は、職場毎に草野球チームがあり、会社としても実業団の野球チームを持っていました。野球以外にもバドミントン・登山・ゴルフ・ボーリングなどの同好会があり、活発に活動していました。私は、職場の先輩方と一緒にやる、昼休みのバドミントンが息抜きでした。
ティアック:しばらくはゆっくりされる感じですね?(笑)
馬渡:カミさんにはのんびりもいいけど一日家に居られるとね、と言われています(笑)
多分仕事はまだやれると思うんでね、またやってるかもしれないし、昼寝して過ごしてるかもしれないし。でもカミさんからは「まずは私を旅行に連れて行く話はどうなってんの?」って迫られてます(笑)
ティアック:(一同笑)長い間お疲れさまでした。貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
馬渡:ありがとうございました。
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